駕龍寺の歴史
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寺院概要
名称 | 高野山真言宗 備福山正智院 駕龍寺 |
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住職 | 富山 義賢 |
所在地 | 〒710-0042 岡山県倉敷市二日市600 |
TEL | 086-421-5631 |
FAX | 086-421-5625 |
駕龍寺の黎明(開山縁起)
縁起其の一:報恩大師、備中の山岳霊場として福山の山上に福山寺十二坊を開く
時は人皇第46代孝謙天皇の御代、東大寺大仏の開眼法要や、鑑真和上が来日するなど仏教が盛んな世の中で人々は生活していました。そんな時代に備前国出身の報恩大師は、備前国に山岳霊場として、四十八ケ寺を建立し、ほぼ時を同じくして備中国は往古、神奈備(かんなんび)山、加佐米山、百射(ももい)山などと言われた山のいただきに十二の坊を建立し、「福山寺」と号しました。
駕龍寺の草創については、資料も少なくわかっていない事も多いのですが、次のような話が伝わっています。
当山の始まりを調べてみても、いつだれが開いたものかは分からない。この福山で駕龍寺と号する寺には、一千にも至る寺院が所狭しと立ち並び、近隣の土地一帯を治めていた。
寺には多くの僧侶が住み、高き峰を仰いで五つの煩悩を掃って大日如来を本尊として修行に励み、深い谷を下って清らかな泉に入り、貪瞋痴の三毒をを洗い流す。
真言の門に入り、六大無碍の美しい世界を称え、最上の境地に至り、四種曼荼羅一体の妙なる花を楽しむ。
この山には真言瑜伽の法がまさに明るく輝いていた。
ある年、寺で数ヶ月にわたって経典の講釈があり、星の数ほどの人々がそれを聞きに集まった。
すると不思議なことに、山の猿が毎日やって来て、人々とともに席に座って講釈に耳を傾け、最後の日までそれを続けた。
この猿は経文を木の葉に描いて持って来て、それを恭しく講師に捧げた。そこでそれを見たところ、見事に法華経が書かれていた。
この猿は、その功徳によって死後、宮中に皇子として生まれ変わったが、生まれて五年が過ぎても、一言も言葉を発しなかった。占い師が占って、次のように述べた。
「どこの国かは分かりませんが、西国にいらっしゃれば、言葉を話すようになるでしょう」
そこで速やかに旅に出かけ、輿に乗って備州賀屋郡板倉郷に至った。(現在、この地には「轟橋」という橋がある。
伝承によれば、このこと(皇子の御輿が轟いたこと)に因んで名づけられたのだという)
すると皇子が自分で輿の御簾を上げ、福山の嶺を指さして、「見よ、朕が故郷なり」と言った。
この時生まれて初めて迦陵頻伽のごとき美声を発した。それを見て周りにいる全ての者が皇子を礼して、万歳を唱えて祝った。
更に御輿が福山に至ると、皇子は「我が前世の場所である」と言い、僧侶に対して礼拝し、輿から下りて、堂・塔を巡って拝礼し、境内をご覧になった。
そして、御所に帰還した後、駕龍寺の荘園を倍に加増して寄進した。それ以来、福山の寺々はは益々繁栄したと伝えられています。
縁起其の弐:地域の人々とともに新たな地へ
福山寺は小池坊を筆頭として、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊、奥坊、天神坊、万福坊、鍛冶屋坊、真如坊、惣持坊、法積坊と12の山内寺院があり栄えていましたが、徐々に山間部から新開地へ多くの人家が移ったために、正和元年(1312年)には福山寺の十二坊の内、小池坊の頼宥法印が率いて、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊の五坊が帯江村五日市に移りました。
その後、福山寺の跡は足利氏に味方した備中の豪族・荘兼祐が改築して城を構え、建武3年(1336年)新田義貞方の大江田氏経がこれを攻め落とし、足利直義の大軍を迎え討ったという福山合戦で灰燼に帰しています。
縁起其の参:駕龍寺の祖報恩大師
報恩大師は現在の岡山市芳賀に生まれ、15歳で出家、芳賀坊と名乗り、備中・備前の山の中で修行を重ね、数々の霊験を示すようになります。30歳にして吉野山に入り観世音呪を持し、天平勝宝四年(752年)宮中に召されて孝謙天皇の病気平癒の祈祷を行ない、見事、女帝は快癒されます。女帝は芳賀坊に「報恩大師」という名と「摩訶上人」という号を授けられました。また桓武天皇が長岡宮で沈痾に伏せられた時、観自在根本呪を誦して治されたと伝えられています。『元亨釈書』
駕龍寺の歴史
駕龍寺の歴史は都窪郡山手村西郡の南に位置する福山の山頂に、平安時代に報恩大師が創建したと伝えられている福山寺にさかのぼります。
焼失から再建
福山寺は建武2年(1335年)に足利氏に味方した備中の豪族・荘兼祐が同寺を利用して城を構え、翌年新田義貞方の大江田氏経がこれを攻め落とし、足利直義の大軍を迎え討ったという福山合戦に巻き込まれ焼失している。
その後、応永7年(1400年)に南禅寺一麟が残している記憶や、応永末年に総社宮造営にも参加している記憶から、同寺は応永年間の初めには再建されていたと推測されている。
移転
当時、福山寺を中心に小池坊、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊、奥坊、天神坊、万福坊、鍛冶屋坊、真如坊、惣持坊、法積坊と12の山内寺院があり栄えていたが、徐々に山間部から新開地へ多くの人家が移っていったために、正和元年(1312年)には福山寺の十二坊の内、小池坊の頼宥法印が率いて、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊の五坊が都窪郡帯江村五日市に移転し福山正智院駕龍寺と号している。
それから約400年を経た第14世高観住職の時代に、元文四年(1739年)から数10年の間に本堂、山門、十六羅漢堂、力士門、十王堂などの諸堂が建立されている。
その後、宝暦年間(1746~51年)に小池坊、東坊、西坊の三坊が現在の同村二日市に移り今に至る。当代の住職は中興頼宥法印から数えて31世となる。
駕龍寺の本尊は聖観世音菩薩。小池坊の本尊を移したもので、恵心僧都の作と伝えられる。
「福を見て与えずということなく、寿を希うて延べずということなし」とのご利益から福寿海観音と呼ばれている。